株式会社ワールド・ワン 河野圭一氏 インタビュー 株式会社ワールド・ワン 河野圭一氏 インタビュー

新型コロナウイルスの感染拡大が収束しないまま迎えた2020年の年末。大阪では非常事態を示す赤信号が点灯し、大阪市の一部に出ていた飲食店への時短営業要請が延長された。飲食業界は大きな打撃を受け、閉店に追い込まれる店舗も少なくない中、生き残りをかけた新たな取り組みが日々生まれている。

今回はコロナ禍でも「日本の食文化で豊かな未来を創造する」という自社のミッションをブレずに体現し続ける株式会社ワールド・ワンの代表取締役社長 河野圭一氏に話を伺った。

20代で一国一城の主に。
築き上げたキャリアを一瞬で奪った阪神大震災。

まずは簡単にこれまでのご経歴をお聞かせいただけますか?

河野さん:高校を卒業して自動車の整備工として働いていましたが、1年くらいで辞めてそこからはほぼずっと飲食ですね。最初に働いていたカラオケバーが新しい店舗を出したときに、そこを任されました。

ではかなり若いうちに自分のお店を持たれたんですね。

河野さん:そうですね。でも単に運が良かっただけです。経営のことなんて何も分かっていませんでした。でも、その代わりめちゃくちゃ働きましたよ。夕方出勤して朝まで飲んで、毎日二日酔い。休みなんてほとんど取りませんでした。

当時というと90年代ですよね。バブル崩壊後でも神戸の街は活気があったんですか?

河野さん:三宮付近はバブル崩壊後も賑わっていましたね。週末の夜はナンパ目的の車で大渋滞していて抜けるのに1時間くらいかかることもありました。でもそんな賑やかな三宮の街が、ある日突然変わってしまいました。

震災ですね。

河野さん:はい。震災発生時、店は営業中だったのですが、本当にすごい衝撃で。何が起こったのか最初はわかりませんでした。エレベーターに閉じ込められた人をみんなで救助して、外に出たら、線路は傾いているし、あちこちのビルが壊れていて…。とんでもない光景でしたね。

河野圭一氏河野圭一氏

仕事どころではない状況ですよね。

河野さん:はい。仕事どころか放心状態でなにも考えられなかったです。ふとした瞬間に涙がドバッと流れてきたり、情緒不安定な状態でした。
でも自分たちが被災者として暮らす一方で、テレビを見ると数十キロしか離れていない大阪ではみんな普通に生活している。びっくりしました。そこで、神戸の復興を待っていても仕方がないので、残ったメンバーと一緒に大阪のミナミで店をオープンすることにしました。

同じ関西でも、被災地とその他の地域ではかなり被害の差がありましたよね。その状態から新しく別の場所でお店を始めるのは、金銭的にも精神的にもかなり大変だったのでは?

河野さん:そうですね。お金もないので小さな居抜き物件を借りて、安いお店でお揃いのジャージを買ってビラを配っていたら、毛皮を着たホストに嫌がられましたね。あっちいけって(笑)。

なぜジャージ(笑)

河野さん:いい服は買えないのでせめてお揃いにしようって。ありがたいことに、神戸時代のお客様がリュックを背負って何時間もかけて来てくれるんですよ。そこからはもう本当に必死でした。
その甲斐あってか、心斎橋と梅田で5〜6店舗を出して、さらに従業員も増えていきました。毎日身を粉にして働きましたが、そんな日々が続くうちに、ふと迷いがでてきたんです。「一体何のために働いてるんだろう」って。

気が抜けたんですかね。

河野さん:そうですね。あと、いわゆる水商売ですから “こんなこと若いうちしかできないよなあ” という気持ちもあって。
それで、飲み屋ではなくてちゃんとした飲食をやってみようと、見よう見まねでダイニングバーをオープンしたんです。サンゴやクラゲの水槽を置いて、フォアグラの○○みたいな見栄えのいいメニューを並べたら、メディアにとりあげられて、あっというまに予約の取れない店になりました。

出す店すべて当たってる!ビジネスセンスがあるんですね。

河野さん:たまたまです。料理のこともわかっていないし、原価率などの経営数字も理解してない素人集団。そんなの続くわけがないんですよ。結局オープン半年で客足が減って、最後はゼロになりましたから。

河野圭一氏河野圭一氏

お客さんが減っていく中で、何か施策を打たれたんですか?

河野さん:お客さんってある日突然ゼロにはならないんですよね。緩やかに減っていくんです。それでも「今日は雨だから」「阪神が負けたから」って言い訳ばかりしているうちにゼロになったという感じです。そうなるともうお客様とか料理とかどうでもよくなって、どうやって家賃払おうとか、みんなに給料渡せるかなとかそんなことばかり考えるようになってくるわけです。だんだんお店の雰囲気も悪くなって、最後は従業員にお金を持っていかれました。

今度はもっとお客様に喜んでもらえるお店をつくりたい。
プロレスラーから心機一転。飲食業に再びチャレンジ。

それって、震災から数年間のお話ですよね。短い期間でそれだけいろいろな経験をして、精神的なダメージも大きかったんじゃないですか?

河野さん:もちろんです。肌はボロボロになるし、布団から出られない日もありました。そんなとき、通っていた空手の道場で、プロレス団体を作ろうとしている元相撲取りの方に出会って、練習台になっているうちにいつの間にか試合を組まれてプロレスラーデビューをすることになりました。

プロレスラー時代の河野圭一氏

話の振り幅が大きすぎます(笑)。お布団から出られないところからよくプロレスラーになる決心がつきましたね。

河野さん:もう何も考えられなくて、目の前にあることをやるという感じですね。震災の時に、すべてを失った経験から、自分ではどうしようもないことがあると学んだので、どんなことがあっても「考えても仕方がない、前に進もう」って思えるようになったんです。でも、結局プロレスラーは、怪我が多かったのと、普通は18歳くらいでデビューするのにすでに27歳になっていたので、ちょっとこれはこの先難しいかなと思って辞めたんです。

プロレスをしているときは、飲食業をもう一度やりたいとは考えてなかったんですか?

河野さん:志半ばでやめてしまった飲食業をもう一度ちゃんとやりたいという思いはどこかにありました。
プロレスって一年の半分以上は試合で地方を周るのですが、神戸では見たこともない食材や料理に出会うたびに、こういうのが神戸にあれば面白いなって考えていましたね。もう一度店をやるなら今度は経営も勉強して、スタッフと価値観を共有しながらお客さんに満足していただける店をつくりたいと考えていたので、巡業中も経営の本をたくさん読みました。

失敗を経験したからこそ行き着いた答えですよね。

河野さん:そうですね。当時は辛かったのですが、振り返ってみるといい経験だったと思います。それでプロレスラーを辞めてから、沖縄料理店「modern食堂 金魚」を三宮にオープンしました。20年前はまだゴーヤなどの沖縄食材はあまり知られていなかったのと、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」の影響などから評判になり、2店舗目となる「琉球料理とあぐーの店 卑弥呼」を出して、そこから沖縄だけではなく、さまざまな郷土料理を出す「炭旬鮮市場からす」と、1年間で3店舗をオープンさせました。

沖縄料理 金魚 三宮本店

郷土料理 からす

オープン後すぐに人気店の仲間入り。
順調にすべりだすも、スタッフ間で問題が発生。

上々のスタートですね。

河野さん:はい。経営はうまくいっていたのですが、スタッフ間のコミュニケーションに問題が出てきて。スタッフの中には生粋の職人さんから女子大生のアルバイトまでいろんな人がいるのですが、職人さんが若いアルバイトの子に威圧的だったり、ちゃんと挨拶をしなかったり店の雰囲気があまり良くなかったんです。

飲食店ってそういう問題が起こりがちですよね。

河野さん:そうなんですよ。そんな状況ではもし店になにか問題が起こった時に、みんなで一丸となって解決できないじゃないですか。それで、まずは自分がちゃんとしようと。

ちゃんと、というと?

河野さん:今までは茶髪に短パン、ビーチサンダルでお店に出ていましたが、髪を整えてビシッとスーツを着て出勤するようにしました。突然だったのでみんな驚いていましたが、だらしない上司に何を言われても聞く気にならないですよね。だからまずは形から入って心に至る、という礼儀礼節の大切さみたいなものを体現しようと思ったんです。それから理念をつくって合宿もしました。

合宿ではどんなことをされたんですか?

河野さん:2泊3日で、挨拶の練習をしたり、経営理念を覚えたりしました。

2泊3日って結構長いですよね。スタッフの方の中には乗り気じゃない方もいたのでは?

河野さん:はい。最初は斜に構えて反抗的な態度のスタッフもいました。若いアルバイトの子がピュアな気持ちでやっているのに、わざと水を刺すようなことを言ったり、キレて殴りかかってくるスタッフもいましたよ。

河野圭一氏河野圭一氏

なかなか激しいですね。そういう人たちをどのようにまとめていったのですか?

河野さん:構えずに素で向き合いました。まさに「人間」対「人間」という感じです。それで辞めてしまうならしかたないと腹を括っていましたね。でも結局、私が伝えたいことをちゃんと理解してくれて、最後のスピーチではみんな号泣。心が一つになったと感じました。

変化に対応することは大切だけど、
どんなに世の中が変わっても、人が集う場所は変わらない。

でも実際に合宿までやるとなると大変なので、ほとんどの組織は飲み会などでコミュニケーションやチームワークを形成しようとしていますよね。河野さんはお酒にそういう力があると思いますか?

河野圭一氏河野圭一氏

河野さん:私はこう見えて人見知りなので、人との距離を縮めたり、好きな女の子と仲良くなったりするときにお酒を潤滑油として使ってきました。創業当初の面接は、堅苦しい話はそこそこに、まずはご飯を食べにいって飲もう!という感じでしたし。ご飯を食べながらお酒を飲んだら距離って絶対に縮まるじゃないですか。

確かにそうですよね。でも、そう考えない人も今は多いようです。

河野さん:いろんな考えがあって当然ですし、強制はできません。当社では10年以上前から内定式をやっていて、これまでは飲めない人でもとりあえず一杯目はビールでしたが、今年の内定式では半分以上がノンアルコールでした。そのような変化はちゃんと受け入れています。僕も40歳を超えてめっきりお酒が弱くなりましたし、ちょうどいいかもしれないです(笑)。

お酒を飲まない、飲み会に参加しない、といった人が増えてきたことに加えて、このコロナ禍でますます飲食業界は苦戦を強いられています。そんな中、御社ではいち早くデリバリーサービスを始められましたね。

河野さん:まず、お酒を飲まない人が増えたり、コロナの影響でどんなに状況が変わっても、人と人が時間を共有する場は決してなくならないと思います。
そして、当社の新たなサービスに関しては、生産者さんの販売チャネルを増やす目的で、コロナ以前からデリバリーや食材の通販などの構想はあったのですが、このような状況になって一気に話が進んだという感じですね。
当社は飲食店経営に留まらず、郷土活性化という大きなミッションを持っていますので、社会がどう変化しようとも日本の食文化と地方の素晴らしい郷土を繋ぐプラットフォームとして、社員だけではなく生産者の方など関わってくださっている方と一丸となって歩んでいきたいという思いがあります。緊急事態宣言の後、ほとんどの店舗が休業になって、生産者の方に対する打撃も大きかったので、なんとかしなければという一心でしたね。

なるほど。では最後になりますが、河野社長がこの仕事を通じて叶えたい未来について聞かせてください。

河野さん:まずは当社の取り組みを通して、「発見する喜び」「知らなかったものに出会う楽しさ」をたくさんの方に経験して欲しいです。
また、地方の食材が別の場所で根付いて、新たな食文化が生まれるとうれしいですよね。あとは、地方の食だけではなく同時に文化や郷土を伝えることで、「行ってみようかな」という人が増えて地域活性化に少しでも役立てばと思っています。

ありがとうございました。

株式会社ワールド・ワン

聞き手・文:和谷 尚美(N.plus)
取材日:2020年11月10日

株式会社ワールド・ワン

「日本の食文化で豊かな未来を創造する」という理念のもと、神戸を中心に大阪・東京で日本各地の郷土飲食店約30店舗(令和2年12月時点)を展開。現地直送の食材を楽しめるだけではなく、観光PRや地方創生、誘客のための情報発信を実践。特産品販売コーナーを設けるなど、地域のアンテナショップとしての役割も担う。

2015年、土佐清水市との連携協定を締結、全国に「土佐清水ワールド」を展開。2017年、青森県と連携協定を締結、「青森ねぶたワールド」「青森ねぶた小屋」をオープン。2019年には、熊本県、兵庫県と連携協定を締結、「熊本火の国ワールド」「ひょうご五国ワールド」をオープン。

「土佐清水ワールド」は、2019年1月に総来店者数が 100 万人を突破。2020年12月には、土佐清水市に、藁焼き体験ができる魚市場「土佐清水地魚市場 藁焼きワールド」をオープンした。

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